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ドル150円に戻ってきてしまった話雑感

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素人であるという前提でお読みください。 少し前、おおよそ2023年の半ばから下旬ころに、銀行の勧めてくるプランが軒並み円高だと為替損になりそうなものに染まっていた時期があった。そのときにまず思ったのは「銀行筋も円高を予想しているのだな」ということだった。一方、そのときに個人的に懐疑的だったのは「不確定要素込でそう言えるのか?」だった。多くの(私と同じ)素人筋は銀行が円高方向に賭けているのできっとそうなる、といった趣旨の話をしていた。本当にそう思う? 私の予想は一貫して「長めに捉えれば円安方向に振れ続ける。ただしある程度の要因で円高に振れることは当然あるので、その円高の時期に無駄な動きをしない」だった。この判断が使えるのは私が為替周りで仕事をしていないからに依る。仕事をしている人が円高を予想しているのであれば、片側でその蓋然性は高そうに見えた。自分の資産運用における消極的な意思決定としてはドル80円頃から一貫してこのスタンスでいる。干支1周分くらいである。うーん、そんなに長くないかもしれない…… ドル80円頃、私はアメリカにいてUSDで給与を受け取っていたから、何らかの判断を必要とした。日本国内にいて、ドル建てにわざわざ変えて運用するための根拠を私は体感したことがない。この小さな規模感では、せいぜい海外に連動した投資信託程度で良い。ドル円の議論は私には少々難しすぎる。ただ、わかっていると主張する人々がわかっていなそうなのはなんとなく感じられる。 私には上に挙げた2つの思想(私のものと、仕事人のもの)には両方とも基礎 (foundationalな) レベルで問題があるとは思う。私の側は、確かにそうかもしれないが、ひどくのんびりした事情、ひどく小さな家計の規模を前提に構えているからこそできる話であって、お茶の間議論においては十分に妥当かもしれないが、会社や社会を支えられるだけの土台には非常にしづらい。もう片方は、なんというか単純に本当のことを見えづらいからという理由できちんと見据えていない。 蓋を開けてみれば2024年冒頭に大地震があり、円高に振れるという予想とは大幅に異なる経緯をたどった(「ドル150円」を迎えた直近の円安は米国の物価や失業率に関わる指標が存外に良いことに依っているのだと思うが、一旦ここでは、円高から円安に折り返したタイミングのことに意識を集中させておき

今後20年ほどの生き残り案について考えていた

 ソフトウェア開発者という枠組みだけで20年生き残るのは現実的ではないように思えた。そもそも今は「まねーじゃ」の類の比率が高い。これは喜ばしいことである。 20年後に「まねーじゃ」のままであることは望ましいかと言われると難しい。要するに何ものにもなれない何者かなのである。捻りを考えておく時期だ。 捻りの一つは物理的・数学的に不可避な知見を足すことではないか、というのは常々考えていて、それは数学・統計であり、電子・電気といった領域に感じられる。数学・統計は「苦手意識」が消えた今、今後も大目標であり続けるだろう。電子・電気は最近違和感を感じることが急激に少なくなった。どちらも十分な水準に達する準備がない。これは10年という単位では越えなければならない。 もう一つの捻りは「まねーじゃ」からディレクター(取締役)なり監査役といった文脈になり得るように思えた。私自身に何かを経営を通じて達成したいという希望が今のところ見えない。しかし国内の経営の課題は見えてきた。会計監査の専門性までは到達したいとは思わないが、IT監査と管理会計(「経営者会計学」という語り方があるのだと最近知った)の文脈は非常に興味がある。なにせ理解している人が国内に少ない。そこを魅力に感じる人も少ない。ちゃーんす そういう話をしたら「趣味に無理やり理由をこじつけなくてよいよ」と言われた。しょんぼり

戦略コンサルの言う「プロの仕事」のプロらしくなさ

 どうも戦略コンサルの人というのはこういう口ぶりをすることが多い。「プロ対プロのしごとなのだから、同僚としてプロのしごとをして欲しい」 ところでLED電球の動画を見ていた。一方は有名電機メーカーのものであり、もう一方は安売りショップの製品であった。 どちらもプロの仕事ではある。ただし一方は高い、一方は安い。違いを技術的に述べることは私には難しいが、端的な特徴として、高い方は色再現性も高く、ノイズが少ない。一方はその逆で、その分安い。光量はどうだろうか、実は安いほうが光量は多かったそうだ。これはLEDの品質ではなく、それを遮る表面のガラスの厚さによっていた。 単純に「プロの仕事」である。100Vの交流電源に直接繋げられる製品にプロの仕事は有りえない。しかし特徴は異なる。 戦略コンサルの人の「プロ」仕草には次のような雑さがある:明るければ良い。 現実に重要なのはしばしばその要件以外のところにある。むしろ明るさだけをプロの度合いで考えるなら、安いほうが良いという話に直結しかねない。 今回の2つの異なる「プロの仕事」で最も分かりづらい違いは「ノイズ」だろう。片方は、明るさのような分かりやすい部分については文句がないかもしれないが、使っていてたまに「他の機器の調子が悪くなる」可能性がある。人体に危険はないだろうが、しかし、外部に影響がないことまでは保証の範囲外だ。それは「プロの仕事」の範囲ではない……これが安売りショップ側の態度である。安さとの一貫性において許容できる「プロ」さだと、私は思う。 このような「プロ」の仕事を利用するもう片側のプロは、このような見えづらい事象・違いをきちんと取り扱えるだろうか。ケースバイケースではあるが、概ね観測する限りでは、鈍感であることが多いように思える。肝心なのは鈍感なことがあること、ではなく、鈍感になりえることについて無知・無恥なことだ。これは、恐ろしいほどプロに見えない。 しかし、表層的な語り口の中で問題になることはない。ノイズで困るのはその仕事が終わったもう少しあと、しかも別のプロのしごとの文脈で、だ。相手にプロ意識を要求しつつ、いびつなプロ観を持ち続けていて羞恥がない。 そもそも、明確な合意がない限り、「プロ」という言葉には合意ある定義がない。なんとなく気分で表現しているだけだ、ISOもJISも通過してない。自分もプロ、相手もプロとい

振り返ってみると後付説明が出来るが、先行する判断としても説明無しに妥当なパターンがある、という話

 一言で言い表す言葉がないので冗長に書いとくとこう。 ある部下を評価する際に「良い」「普通」「悪い」のどの説明も出来てしまうケースがある。こういう場合、通常は「良い」とするには交渉リソースを使うので大抵は「普通」にしてしまえるし、あるいは他のケースを優先するために「悪い」と出来てしまうことすらある。これも受け手としてはすごいアンフェアなことなのだが「ある」とはまず主張しておく。 この際、「普通」とすることに対して上方(つまり評価する上のレイヤ)に対する交渉リソースの消費は抑えられるため、特に良く吟味しない場合は「普通」に倒れがちだと思う。 ある時「自分は良い、じゃないと不服だ。辞めるわけではないがそう主張しておく」という話をしてきた部下がいるとする。自分からするとこれは若干めんどくさい。熟考するべき案件かもしれない。 ただあるときにこういうことがあった。ふと、特に深く考えずとも「良い、としても良いんじゃないか」と感じ、特に深追いせずに判断を「良い」としたことがある。そもそも最初の3択が任意で変えられることも一見不条理だが、それに加えてこの判断変更もある意味不条理だ。私は真面目に評価していないようにも見える。その時は事実自分でもこの2つの論点で「なんだこれ」と思ったものだ。 ただ振り返って考えた際には筋が通っていた。この評価変更の三択は選択肢としては有り得るし、その中で「良い」を選択するのはある観点で最良なのであった(別の観点ではそうではない) 後付けで言える主張はこうだ。その「不服」の背景は「より多く難しい仕事をしたから」であった。私が「普通」とすることでそれは今後、下手をするとその相手に対する普通のことになる。これは実際のところ私にとっても面倒なことだ。私も手伝うからだ。 「普通」の選択肢の良い点は、これが「自分の中でのその人の評価」に最も近いことによる。手伝わされているし、尻拭いも一部する必要がある。プラスはあった、ただし足も引っ張られていたところを見ている。プラスとマイナスでうちけすとゼロ。 ここで「良い」の評価を下すと、社内においては話が変わる部分が出てくる。まず短いスパンではその評価対象に報いる事ができる(離職リスクは低い方向にいくと予想される)。深い意味では、その相手は社内の等級的な枠で昇進する。そして私は手伝う必要が減少する。上の等級なら「普通」になる

日本語は滅びるかもな、と思った

 人はいずれ死ぬのです……じゃなくて、現代の人が想定しているよりも早く日本語が劣化して実用というよりは文化的な側面でキツくなるかもな、という話 機械翻訳が「まぁまぁ」になっていて、日本人が翻訳とかに対して相対的にパブリッシャーに金を払えない構図が出来てきています。すると、人の手で調整された「高級な」翻訳については今後「絞られ」ていくことになるかなと。日本初海外の作品の海外語には当然されるとして、逆は徐々に減っていくはずです。 やだー! https://twitter.com/rakuichirakuthe/status/1743035039724822680 https://twitter.com/alphabill/status/1743697852193497154 そうすると、例えば「後継者のいない伝統工芸」と同じ方向に日本語全体の文化的な部分が降りていくんだろうなー、とふと思ったわけ。 もちろん文化というのは変化するものなので、言葉も変化はするはずです。ただ、変化の先に、今は人手の介入を若干離れた壊れ気味の言葉(と、壊れ気味の発音)が混ざりますし、一度混ざればなんやかんやで人と機械が学習する際にもそれを基に構築されるのかなと。翻訳等をし易い言葉が残るでしょうし、翻訳を拒絶する単語・構造はまずは論理的な文脈から逆に採択されないはずです。 私が読む普段のニュース記事とか技術文書とか、やたら「読みやすさ」を強調する傾向が強まっていて、サイクリック・循環する感じでその主張が強まっている印象あります。要点なぁに、まぁわかるんですが、行間というか、個性というか、そういうのが死んでいて、主張がゾンビみたいに歩き回っているのを見る機会が増えた印象も同時にあります。主張が単層的なので、多分ですが英語で読んでもこれ苦にならんです。「読みやすさ」を重視する文なら日本語そんなに強い言語じゃないじゃん 日本語にオリジナルの情報がなくなる、とは言いませんが、それ以外の派生がすごく先細るし、現状ではもともとの直近の言語ストックをかなり強くフィードバックする傾向ばかりが進行していて、戻る事はおそらくないです(レコードブームくらいの戻り方はするだろうけど)。すると、「日本語である理由」はそこに囚われている人の相対的には貧困なコンテクストの中に閉じ込められるのかな、と。ほとんど「方言」のレベル

危機管理について思うこと

 最近某所で「もわもわさんは若干楽観バイアスが強すぎるところがある」なんて指摘を受けた。個人的には「不愉快」と言って良いクラスで的外れなコメントだと思った。その人が知らないことについて余りに無警戒であったものだから。 まず、楽観バイアスがあるかないかは、私からは 評価できない 。そこはおいておきたい(事実、知っていることに対する警戒レベルは、そのコメントをした人は一般的な推奨水準か、それ以上だと思う。おそらく、防災の観点で言うなら、十分立派だ) 一方で、私が思うには、多くの人が「知っていることを過度に心配しすぎ、知らないことを あまりにも 無視しすぎる」傾向が強い( のであろう )と 憶測 している。ゆえ、「知っていることを心配しすぎず、知らないことに警戒する」傾向を意図的に強めている、が私の 一応 私の自己認識だ。 上の人に限らず、一般的に世間を見るに「知らないこと」に対する警戒心の薄さは余りにまずいレベルにあると思う。それは、多くの進歩があったからゆえなんだとも思う。科学が進歩すれば、いろいろなものが予測可能になる、世の中が明るくなる、現に明るくなっている、そういう言説は多く、根拠もある。まずい根拠がもしあれば、それは改善対象になるのである。 問題は「わからないことをあぶり出す」能力は人類としてそこまで高まっていないというところかなと思う。あるいは「分からない領域がどのくらい残っているか」を謙虚に検討する能力とでも言おうか。 片側では「進捗がある」一方で片側は「進捗のあるなしが分からない」。こういうときに後者ばかり強調するのが「陰謀論」という考え方は分からないでもない。 「分からないことには押し黙る」は間違っていない。問題は「分からないことはないものとして扱う」ことの恐ろしさの方だ。 私が嫌いな概念の一つが「最新の科学」という表現。単に「我々は思っていたより一層無知だった」と言うべきなのではないだろうか。進歩を強調すると、傲慢に見えるのだ。 統計とか定量的に把握したわけでは決してないが、次のように思う。そこそこの準備をしてしまった前提で言えば、「思っていたことが思った通りに問題となる」ことよりも、「思ってもみなかったことが思っていたことよりも遥かに頻繁に起こる」ようになる。探索空間が広すぎて、探索的にもチェックリスト的にも抑えられない不可視の問題が現れ、合理的な

ふたつの「褒める」

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 給与とか評価とか信頼度という観点で見たとき、「褒める」に少なくとも2種類ある 一つは「格下への評価」。「格下」とは言い方は悪いものの、好意的な評価であることに違いはない。もう一つは「同格以上への評価」。 これらの2つを取り違える好例の一つは「部下を褒める」という慣行ではないかと思う。正確に言えば部下と上司の関係は格上・格下とちょっと違うのだが、ここでは「スキル面で格上の上司が部下を褒める」というケースを言っていると思って欲しい。 このエントリでは、この2つを混同する中でも、仕事上ありがちでまずい失敗について主に取り扱う。この「褒める」が「同格であることの証左」と部下側で勘違いすることだ。そういった勘違いをすると「褒められたから昇進する」と勘違いすることがある。こういう捉えられ方をすると二者の関係はひどくゴタゴタする印象がある。 ここでは上司側の対処法は検討しない。代わりに、部下サイドにこの二種類の「褒め」には質的な違いが少なくともある、ということは認識しておいてほしいと思って書くことにした。 「格下」への褒め、はあくまで格下へのモチベーション付けや教育という成果を目論む魂胆がある。悪意があるわけではない。ただし「称賛」というよりも「評価」であり「フィードバック」である。あるいは「続行せよ」というシグナルの比率が大きい。 同格に対して同じ「褒め」を実行することは通常ない。それは馬鹿にしていることになるからだ。「出社できた、偉い!」という「褒め」がある程度ジョークとして成立するには「本当はそのくらいのことで褒められる筋合いはない」という意識が含まれている。不登校児が登校できた、偉いのはわかるが、いつも登校している児童について言うまでもない。 この「格下」への「褒め」がされるということは、ある意味では「同格以上としての評価の土壌にない」ことを暗に意味している。 ある意味「英語、お上手ですね」とネイティブスピーカーに褒められるのと似ている。本当にネイティブだという認識を相手が持ったらこの言葉は(多様性が十分であれば)基本的に出てこない。 ゆえ、自身の「格」を組織や相対する相手に大して上げたいと思う場合、この手の「褒め」には、(表面的に礼をするのはもちろんなのだが)少なくとも満足しないほうが良い。 このエントリを思いついたきっかけは「上司に褒められている」と満足げに語り、グ